[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ teacup.>高校野球 ] [ 検索 ]

投稿募集! スレッド一覧

スレッド作成 他のスレッドを探す

全1942件の内、新着の記事から20件ずつ表示します。 6  7  8  9  10  11  12  13  14  15  |  《前のページ |  次のページ》 

試合結果

 投稿者:管理人  投稿日:2008年 4月27日(日)21時53分43秒
  http://www.shinmai.co.jp/baseball/  

敢闘

 投稿者:管理人  投稿日:2008年 4月 1日(火)17時15分39秒
  日大 00010051000 7
千葉 23200000001x 8
3回までは誰もが予想した展開に。4回1点を返した所で、せめて常葉菊川の2点は超えろと。後半は長野日大のペースでしびれる展開に。選手の皆さんお疲れさまでした。
 

順延

 投稿者:管理人  投稿日:2008年 3月30日(日)17時47分43秒
  今日の4試合目が明日に延びたため、日大は火曜日に試合です。  

ベスト8

 投稿者:管理人  投稿日:2008年 3月29日(土)13時51分6秒
  日大 001000001 2
北大津000000000 0
ベスト8進出おめでとう!
秋の大会以来の公式戦2試合を甲子園の戦い方で、北大津も破りました。
2試合連続無失策がすばらしいです。
次は月曜の第二試合13時30分予定。相手は千葉経大付とまたまた強敵。
浮き足立つ事無く、今まで通りの試合を。
 

明日

 投稿者:管理人  投稿日:2008年 3月28日(金)17時52分38秒
  本日の平安対鹿児島工の再試合はあさっての第一試合に組み込まれたので、明日は予定通り、がんばれ長野日大!  

北大津と三回戦

 投稿者:管理人  投稿日:2008年 3月27日(木)13時59分3秒
  東北を破り波に乗る北大津は横浜にも完勝。エース河合は好投手、打撃も思い切りが良く、長野日大にとっては強敵。初戦のような戦いができるかが、鍵になります。守りは前回同様無失策で。上村君も四球をきっかけに連打などとならないよう、冷静にいければ良いと思います。応援は土曜と言う事もあり、近い大津からは大応援団が来そうです。日大も今治西の時のアルプスは非常にまとまって応援で後押しをしていました。
ぜひ内野も埋まるくらいの応援団になるよう甲子園に出かけてはいかがでしょう。
JRでは28日深夜発の応援列車も運行。松本にも止まるそうです。
お問い合わせはびゅうプラザ長野
026-227-6536です。
 

速報丸子修学館vs智弁和歌山

 投稿者:管理人  投稿日:2008年 3月25日(火)14時08分39秒
編集済
  智弁101001072 12
丸子000000400  4
丸子下村は智弁を3点に抑える粘投、惜しい点の取られ方だが、まだまだがんばれ!
7回裏4番のホームランをきっかけにヒット4本で逆転!
8回表緊急事態発生。先発下村をレフトに4番春原と交代させ、竹内が2番手。しかしショート平林と下村が守備で激突、両者退場。さらにライト西藤もけがで交代。
平林選手はほお骨の骨折で全治3週間との事。西藤選手は脱水症状。
7回裏の逆転で一気に流れを引き寄せた丸子でしたが、8回の事態で流れが変わってしまったのが残念でした。
この攻撃や、強打者智弁の坂口君をヒット1本に抑えた下村君のピッチングは夏につながると思います。
細かなミスを修正する事が甲子園に戻るには必要です。
アルプスは昨日の日大といいスタンドが埋まり応援に熱が入りました。
 

丸子修学館

 投稿者:管理人  投稿日:2008年 3月14日(金)10時13分59秒
編集済
  24日(火)第三試合で智弁和歌山となり初戦に山がきました。  

長野日大

 投稿者:管理人  投稿日:2008年 3月14日(金)10時09分1秒
編集済
  24日(月)第三試合14時からで今治西です。次が横浜でその後常葉菊川となりそうです。  

明日は抽選

 投稿者:管理人  投稿日:2008年 3月13日(木)14時44分31秒
  14日は抽選です。
15日午前9時半よりテレビ信州で日大と丸子の特番があります。
 

練習試合解禁 信毎より

 投稿者:管理人  投稿日:2008年 3月 9日(日)16時05分30秒
  8日、練習試合解禁日に合わせて今季初の練習試合を行った。
長野オリンピックスタジアムで松代と対戦した長野日大は、先発した1年生右腕飯島が4回を無安打に抑える好投。打線は五回に打者一巡の攻撃で4点を奪い、八回にも一死満塁から池田の三塁打などで4点を追加し、12−4で大勝した。
丸子修学館は、千葉県銚子商高グラウンドで2試合を実施。1試合目の帝京(東京)戦は、初回に寺島の左前適時打で先制。四回に先発竹内崇が3点を失うものの、五回には神津が2点適時打を放って同点に。立ち直った竹内崇と六回から救援した斉藤の好投でそのまま引き分けた。選手を全員入れ替えた銚子商戦は七回日没コールドゲームとなり6−7で敗れた。との事です。
 

松商練習試合日程

 投稿者:管理人  投稿日:2008年 3月 8日(土)15時23分8秒
  松商の練習試合の日程を監督よりいただきました。
http://homepage.mac.com/noguchibiyousitu/matsu20.html
携帯の方は
http://homepage.mac.com/noguchibiyousitu/matsu20k.html
 

丸子修学館 その5 毎日新聞より

 投稿者:管理人  投稿日:2008年 3月 6日(木)11時31分34秒
   ◇伝統を受け継ぐ−−「丸子」の歴史に新風
帽子や練習着などに10個の★と1個の☆が並ぶ。「丸子実業」から「丸子修学館」に変わるときにつけられたシンボルマーク。★は丸子実時代の10回の甲子園出場、☆は11回目の目標を意味する。
「丸子」「丸実」−−。親しみを込めてそう呼ばれた。昔から野球が盛んで地域に唯一の高校。地元出身の軟式野球経験者が多く集まり、かつてはグラウンドに多くの住民が駆けつけるなど地域の期待を一身に集めた。
丸子で野球がやりたい。「丸子実業」で甲子園に行きたい。「丸子」「丸実」の名前は少年たちに鮮烈な印象を残した。関佳佑選手(2年)は小学6年の夏に見た「丸実」と佐久長聖の県大会決勝戦が忘れられない。12年ぶりの甲子園出場を逃し、「絶対復活させる」と心に決めて野球部の門をたたいた。
家族が部OBの選手もいる。父が在籍していた関田一馬選手(同)は「父の影響は特になかった」と話すが、OBの兄を持つ武井駿選手(同)は「兄にあこがれた。兄も『ぜひやれ』と言ってくれた」という。
しかし、入学してから校名が変わった。多くの選手はショックを受けた。だが、校名が変わっても魂は変わらない。伝統や歴史が消えることもない。春原ケンジ選手(同)は「寂しいけど1年目に甲子園に行けるのは運命的」、児玉里登雄選手(同)も「『丸子実業』じゃないけど丸子は残っている。自分たちで丸子の名を広めていきたい」と前向きだ。部員60人の「丸子」の誇りは生き続ける。
春夏通算11回目の甲子園を決め、マークは11個の★と1個の☆に変わる。「11個目を自分たちで塗りつぶそうと頑張ってきた。先輩たちから受け継いできた全員野球で、次も星を塗りつぶしたい」と西藤勇人選手(同)。長い歴史の中で積み重ねられた11の星は輝きを放ち、さらに12個目を輝かせるべく伝統を受け継ぐ。
最後の甲子園出場は90年夏。主力の多くはその年に生まれた。伝統の開花をもう一度−−。はぐくんできたつぼみを甲子園で咲かせる。との事です。
 

長野日大 その5 毎日新聞より

 投稿者:管理人  投稿日:2008年 3月 6日(木)11時29分34秒
  ◇名将の厳しさに感謝
松本市の中原英孝監督(62)の自宅居間にあるガラスケースには、91年にセンバツ準優勝の際の記念メダルとともに飾ってある手紙の束がある。「先生のおかげで成長できた」「中原監督のような人になりたい」−−。中原監督が就任した05年に引退した3年生から送られた手紙。監督は「一生の宝物」と表現する。
中原監督は「骨をうずめるつもりで」、母校の松商学園で野球部を20年間、率いた。しかし部内の不祥事が発覚し、04年4月、引責辞任した。多くの学校から誘いがかかったが、「甲子園に出たことのない学校で自分の力を試したい」と長野日大を選んだ。
05年1月に就任すると、中原監督はその違いに驚いた。練習場の広さや練習時間の少なさ……。ナインもそうだった。松商学園では県内外からトップクラスの選手が集まったが、長野日大はほとんどが長野市とその近郊の出身。「素直でいい子だが勝負に対する執着心に欠ける」と感じた。
その懸念は同年3月からの対外試合に露呈した。高崎経済大付(群馬)に9−20、日大三(東京)には7−45で大敗した。「飛び込めば取れる打球を取らない」「迷ったら走塁しない」など積極性にかけるプレーが目立った。中原監督は「迷ったら前に進め」と繰り返し言った。また「3年になったら誰でも試合に出られる」という雰囲気を変えるため、同年4月の地区予選前にはレギュラー9人中8人を変えた。
外野手から内野手に変わった佐藤慎太朗さん(20)は「認められなければ、試合に出られない厳しさを学んだ」と話す。中原監督が「実力は飛び抜けていた」と評価する大羽祐太さん(20)も例外ではなかった。主将で4番だったが「めったにほめられなかった。てんぐになっている自分に気が付き、反省した」
3年生最後の試合となった05年夏の県大会4回戦の翌日。大羽さんは手紙の束を中原監督に差し出した。「僕たちの気持ちです」。中原監督は驚きながら受け取った。3年生全員から手紙をもらうのは監督人生で初めてだった。大羽さんは「とても厳しかったが振り返れば監督の指導は的確だった。みんな感謝の気持ちを伝えるためにしたためた」と話す。中原監督は手紙を読んだ時、「この高校に来て良かったと心から思えた」という。
野球に対する執着心は今の部員にも引き継がれた。07年の北信越大会では4試合のうち1点差の試合は二つ。決勝進出をかけた敦賀気比(福井)戦では2点差で迎えた九回、3点を挙げて逆転勝ちした。中原監督は「どんな選手でも努力すれば必ず結果がついてくる」と話す。甲子園10勝の“名将”は新天地で勝負の厳しさを伝え、新たな歴史を刻んでいる。との事です
 

長野日大その4 毎日新聞

 投稿者:管理人  投稿日:2008年 2月29日(金)17時57分7秒
  残した財産が原動力
07年10月16日の昼休み。西山聖徳さんら野球部の3年生たちは緊張しながら、ある知らせを待っていた。購買コーナーにあるスピーカーから、アナウンスが響いた。「北信越大会での丸子修学館との試合は、4−2で本校が優勝しました」
「よっしゃー」。3年生部員がハイタッチし、たくさんの両手が宙に舞う。「よくやってくれた」と西山さんは喜びをかみしめた。後輩へ託した夢が近付いた瞬間だった。
久保大輝さんが主将として率いてきた前チーム。その前のチームもレギュラーの半分以上を2年生が占め「県代表を狙えるチーム」(中原英孝監督)と期待されていた。06年秋、07年春は県大会で優勝し、北信越大会まで進んだ。しかし、同大会ではいずれも2回戦で敗退。07年夏の県大会準々決勝では、センバツ出場校の創造学園大付と対戦した。
1点差だった九回表2死二、三塁の好機に西山さんは左飛に終わった。「『あの時打っていたら』と今でも悔やむ。甲子園は手の届くところにあった」と話す。試合後、西山さんは泣きながら後輩に語りかけた。「おれたちの分まで、絶対に甲子園へ行ってくれ」。石川和希主将は目を赤くしてうなずいた。
3年生部員が引退する夏の大会後も、西山さんは毎日、グラウンドにやってきた。他の3年生数人とともに大会の前には練習に参加、後輩に指導した。
左投げの投手だった内田悟さん(3年)は、バッティングピッチャーを務めた。「左投手の変化球が苦手」という伊藤剛選手(1年)から相談を受けた内田さん。「体が開いている。もっと踏み込め」と根気強く左投手の想定練習に付き合った。北信越大会2回戦で、伊藤選手はエースの左投手から1打点を挙げた。「親身になって教えてくれた内田先輩のおかげ」と感謝を忘れない。
新チームの強さについて西山さんは「土壇場で勝負強い」と分析。内田さんは「大きな大会でも力を出し切ることができる。僕たちは大舞台に慣れていなかった」と振り返る。しかし、石川主将は「北信越大会でも緊張せずにできたのは3年のおかげ。先輩が何度もでかい舞台に連れていってくれたから」と話す。3年生が後輩に残した財産は甲子園への原動力になった。
この春、日本大学に進学する内田さんは2月と3月にある愛知県での遠征にも、他の3年生とともに同行する。「後輩には甲子園で勝ってほしい。そのためにはできるだけの協力したい」と意気込む。夢の切符をつかんだ後輩を、陰で支え続けた3年生。彼らの役目はまだ終わらない。
 

丸子修学館その4 毎日新聞より

 投稿者:管理人  投稿日:2008年 2月29日(金)17時54分50秒
  ◇「名門」復活へ−−集中力鍛え勝利意識
「甲子園で勝つチームを作りたい」。昨夏の新チーム発足後、山嵜寛之主将(2年)は宣言した。甲子園出場を目指してスタートを切ったチーム。しかし、激戦を勝ち抜くには何かが足りなかった。
昨秋の県大会東信地区予選決勝の佐久長聖戦。3−1とリードしながら終盤の七回に死球を足がかりに、4連打されて一気に逆転された。打っては球を見極められずに凡打の山を築いて一点も返せず、逆に八、九回にも1点ずつ奪われた。
敗戦後のミーティング。なぜ負けたのか。勝つために何が必要なのか。全員で突き詰めた結論は「終盤の集中力不足」だった。竹峰慎二部長は以前の練習試合の相手、金沢(石川)の練習方法を山嵜主将に話した。「試合を意識して練習から『序盤』、『中盤』、『終盤』と考えている」
選手ミーティングで山嵜主将は竹峰部長の言葉を話した。「県大会まで時間がある。終盤に強くなろう」。全員がそう誓った。西藤勇人選手(同)は「もう負けたくなかった。勝つために本気でやろうと決めた」という。
翌日から、集中力を切らさない鍛錬が始まった。練習を試合と同じように「序盤」「中盤」「終盤」の三つに分けて「序盤」はアップ、「中盤」は守備などの技術練習、「終盤」はダウンやグラウンド整備、ミーティングと位置付けた。
練習メニューは以前と変わらない。ただ、山嵜主将が「これから中盤」「ここから終盤」と呼び掛ける。声が出なくなったり、守備練習でしっかり捕球できなくなると「集中!」、「まだ中盤!」と声を掛け合い、プレー一つ一つに集中する。
鍛錬は結果に結びついた。試合でも練習と同様、山嵜主将を中心に「終盤だ。力を全部出し切ろう」と言い合った。守りでは相手打者を確実にアウトにし、打撃では狙い球を絞ってセンター方向に打つ。山嵜主将は「練習でやってきたから、終盤に追いつかれても集中力が切れずにプレーできた」と胸を張る。
ナインたちの目に入るようにグラウンドのスコアボードに刻まれている「全員野球」の文字。投打の柱と呼べる選手はいない。個々の能力が高いわけでもない。しかし、終盤の集中力を身に着けたことで粘り強く接戦をものにしてきた。強力打線で甲子園を沸かせたかつての「名門」がついにリバイバルを果たす。との事です。
 

丸子修学館その3 毎日新聞より

 投稿者:管理人  投稿日:2008年 2月21日(木)13時30分10秒
   学校の近くにある2階建ての野球部寮「つくも遊学」。部員60人のうち、自宅から通うのが困難な15人が生活をしている。
「最初は聞き流していたんです」。オーナーの滝澤元生さん(63)は笑う。寮建設の話が持ち上がったのはおよそ3年前。「スポーツと勉強ができる環境を作ってほしい」と当時の校長から依頼を受けた。
強豪だったころ、遠くから通う部員が多く、学校付近に下宿していた。しかし、チームの低迷や経営者の高齢化によって下宿屋は徐々に消え、選手はアパート暮らしを余儀なくされた。
「生徒のたまり場を作ってどうするんだ」。当初は反対する住民もいた。しかし、「完成を楽しみにしていた生徒に迷惑をかけられなかった」。周囲の反対を押し切って世話をすることを決めた。「面倒を見るのはそれほど大変ではなかった」という。
部員たちはあいさつなど基本的な礼儀を欠かさなかった。道路の雪かきや清掃など、地域に貢献できることにまじめに取り組んだ。住民から好意的な気持ちで見てもらえるのに時間はかからなかった。
滝澤さんは「選手はわが子のような存在。寮では子供なのに、一度グラウンドに立つと別人のように大きく頼もしく見える」と目を細める。大町市出身の田中孝憲選手(2年)は「悩んでいると相談に乗ってくれたり、風邪をひくと仕事があるのに面倒を見てくれる」と話す。中条村出身の瀧本京一郎選手(同)は「食事のことを考えてくれ、僕らが野球をしやすい環境をつくってくれる」と感謝する。
寮は滝澤さんが命名した。つくもは99。野球でも練習でもいつでも“100”という頂上を目指すように、との願いが込められている。「いつも通りのプレーをしよう。そうすれば結果はついてくる」と滝澤さんは話す。「最後まで全力を出してプレーします」と甲子園で“100”を目指す“息子”を見守る。との事です。
 

長野日大その3 毎日新聞より

 投稿者:管理人  投稿日:2008年 2月21日(木)13時27分55秒
  厳しい練習を終えた長野日大の野球部員が合宿所「自律寮」に帰ってきた。1階の食堂に集まった16人の寮生のはしが、せわしなく動き、空腹を満たしていく。選手が座るそのテーブルをゆっくり見渡しながら食事をする大きな背中があった。
「お前、細いんだから、おれのも食べろ。おれは年だからいいんだよ」。中原英孝監督(62)の豪快な笑い声に、選手の笑い声が重なった。「練習だと厳しいけど、寮だとやさしくて面白い。父親みたいだ」と寮長の上村圭佑投手(2年)は話す。
自律寮の2階は同高の勉強合宿に利用され、1階には野球部員16人と松本市に自宅がある中原監督が生活している。同校には寮はなかったが「中原監督を慕って県内外から生徒が集まるようになった」(山崎隆晴理事長)ために建設された。

 寮の建設は中原監督の強い希望でもあった。「土曜日に授業があるなど、練習時間が限られているので、通学時間を省ける寮は重要。また野球は頭を使うスポーツなので、チームが一つになることが大切だ」と話す。
「自らを律する」がその名の由来の自律寮。朝は午前6時起床。その後、グラウンドで体操や筋トレなどを行い、寮の掃除を行う。午後9時の夕食後は11時の消灯時間までに、各自が玄関前で素振りなどをする。
通学可能な長野市に自宅がありながら「練習に専念したい」と入寮した平野聖選手(2年)。自主練習中に様子を見に来た中原監督に「もっと下半身を使った方がいい」などと指導された。「普段の練習では聞けないことも寮では細やかに指導してもらえる。入寮してよかった」と話す。
8畳の各部屋では2人ずつ生活する。池田秀弥選手(2年)は試合が終わった夜は必ず、同室の上村投手に「今日の打ち方はどうだった。突っ込んでなかったか」などと聞き、自らのプレーを振り返るという。上村投手は「一緒にいるとこっちも刺激になる。ちゃんとやらないとと思う」と話す。
年に6回ほどは「強化合宿」として、すべての部員が3泊ほどし、チームとしての一体感を高めている。同寮が完成した06年、秋の県大会で優勝を果たすなど“成果”が表れている。「寮で寝食をともにすることで、選手の気持ちが同じ方向に向かっていくのを感じる。甲子園に行くためにはなくてはならない存在だった」と中原監督は話す。甲子園出場のための大切な役割を果たした寮は、大舞台での活躍を誓う選手を静かに見守っている。との事です
 

毎日新聞より

 投稿者:管理人  投稿日:2008年 2月14日(木)15時01分47秒
  はしか流行のため休校となっていた長野日大の野球部は13日、16日ぶりに全体練習を再開した。久々に51人全員がそろったナインは、遅れた時間を取り戻そうと気持ちを新たに練習に取り組んでいた。
 同高は生徒6人がはしかを発症したため、先月29日に休校した。今月5日から再開予定だったが、さらに患者が出たため、延期されていた。はしかの抗体が確認された部員は先週から自主練習を行い、確認されなかった部員は全員、予防接種を受け、この日から練習に合流した。
 長期間の休校の影響で、今後は平日は7時間、土曜は4時間授業となり、同部の練習開始時間は1時間ほど遅れることになる。予定されていた遠征が中止になるなど、本番を約1カ月後に控えたナインには逆境が続く。石川和希主将は「限られた時間を精いっぱい練習し、一球一球大切にするしかない」と話した。17日には雪のないグラウンドを求めて、飯田市へ遠征する予定。との事です。
 

丸子修学館その2

 投稿者:管理人  投稿日:2008年 2月13日(水)19時12分10秒
   手応えはあった。最後の夏までにはいい線で戦える。今の主力が控えの時から、そんな予感があった。甲子園に出てほしかった。そう期待するからこそ「お前たちは下手なんだ。弱いんだ」と怒鳴ったこともあった。
中村勝彦コーチ(52)は、72年夏から3季連続で甲子園に出場した。堀場英孝選手(元広島など)を擁したチームは73年の春と夏にそれぞれ1勝を飾った。自らはその2大会に代打出場し、2打数無安打。しかし何より忘れられない場面がある。
35年前のセンバツ。初戦で和歌山工を10−3で降して臨んだ日大一(東京)との2回戦で三塁コーチを務めた。両校無得点で、先頭打者が右翼線へ長打。「三塁まで行ける」。力いっぱい手を回した。しかし判定はアウト。試合は七回に1点を奪われ、敗れた。「完全にセーフだと思った。でも今は二塁でとめておくべきだったと思う」。悔いが残った。
8年前、竹内政晴監督に「君の経験を後輩に」と誘われて、母校に戻った。きついと感じることも多かった。チームの成績が振るわなかった時は指導者としての限界を感じた。それでも「頑張れば夢はかなう」と自らに言い聞かせ、選手と向き合ってきた。
瀧本京一郎選手(2年)は「『お前は悩みすぎても打てない。考えずにバットを振れ』とアドバイスされた。そして『それで打てなかったら引きずるな。守備で頑張れ』とフォローしてくれた。今こうしていられるのはコーチのおかげ」と話す。「母校で教えてきた子たちが甲子園に出られるのはうれしい」。厳しく接してきた中村コーチは素直に喜ぶ。「これからは独特の雰囲気など、自分が甲子園で経験したすべてを伝えたい」と思っている。
グラウンドに併設されている野球部の建物の2階には、昔の甲子園の入場行進の写真が飾られている。「後ろから4番目が自分」。中村コーチは1枚の写真を指さした。育ててきた選手の入場行進の写真がこの写真と並ぶ日が、ついに来た。35年の時を経て。との事です。
 

以上は、新着順181番目から200番目までの記事です。 6  7  8  9  10  11  12  13  14  15  |  《前のページ |  次のページ》 
/98