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余談まで転載するこたねーじゃね。
見たのか見れないのかわかりませんけど、私も見れない。
しかし浜松の怪しげな映画館はいつか行きたい。
以下超余談&転載禁止
仰山板・二次会その他でお祭りで、
セクトNo.7 さんもお見かけしました(キムチ作るの上手なんですか)が、
仰山板の患部さんが「あ」氏を「自己欺瞞」規定していたのは、
ひさびさに食指が動きました。
たぶんセクトNo.7さん的に興味が続かないことでしょうが、
「自己欺瞞」というのは、連赤以来の恐ろしい問題だと思うのです。
幸い(?)「あ」氏はその倫理基準を内面化していないようなので、
「総括」されずに、やばくなればずらかれそうですね。
それにしても、
あのお二方のやり取りもカキコも、私にほとんど理解不可能。
そおいう時代なのですか。
長い引用でゴメス
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=997717045&owner_id=2841369
の11月24日本人コメント
***>>引用開始>**
マルクス主義の終焉などと言っても、若い人には単なる一つの思想が有効性を失っただけのように思えるだろう。だが、実はそうではない。
それは、よりよい世界の実現を目指す(というよりよい生き方をする)ために、世界と自己の本質を、因襲に従ってではなく、知的・抽象的に、自分の知性と感性によって、そのつど新たに理解していこうとする、「近代的な」といえる、世界観・人生観が終わったことを意味するからだ。それは、きわめて大きな文明史的転換を意味するはずだ。
理解されるかどうか分からないが、これ以後われわれは「世界との直接的な繋がり」が断ち切られた。ポストモダニストが言った「大きな物語の終焉」とは、実はそういうことだった。現に今、われわれは、世界から断ち切られて、おのおの文化の特定領域の細部の知識をもってその代用とする、総オタク化の世界に生きている。現在の若い人たちは、事実、もう、そういう世界しか知らず、この転換をしらない。
<学説>が<生>と一体化する(そのことで<世界>そのものと繋がる)時代が終わり、それとともに、「哲学」などというものも、世の中で尊重されるべき固有の意義を失った。その意味では、歴史的役割を終えたというべきだろう。以後、それは、個々人の私的な(つまりいわば趣味的な)意味しか持たなくなった。
90年代に入って、例えば私の『<子ども>のための哲学』は、そのよううな歴史的位置づけのなかで、世の中に迎えられた。そこで私が提示した私的哲学観は、当時、年上のインテリたちから驚きをもって迎えられた(ずっと哲学書を読んできたという講談社の重役がそのことについて個人的に話したいと言って料亭に席を設けてくれたりもした)。今ではそのこと自体が不思議なほどだ。
また分析哲学が優勢になったのも、結局、人生と社会と超越的理念とを一直線に繋ぐ哲学の役割が終わった(つまり世の中が哲学を必要としなくなった)ことの現われにすぎないだろう。
私は、もちろん、その種の転換を歓迎したし、むしろ、この方向の「革命」のために闘ったとさえいえる。
しかし、革命がいったん成就されてしまうと、われわれが何を「夢」として打ち捨て、どんな「友だち」をあえて殺してきたか、もはや見えなくなってしまうことに、少なくとも私は、かなり長い間、気づいていなかった。
勝利が決定的になったとき、負けた側に対する共感が自分の内部から新たに湧き上がり、この勝利の上に胡坐をかいたすべてに嫌悪感を感じることは、たぶん、決定的な勝利のしるしだといえるだろう。
**<引用終り<<***
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