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すみません。(以下は殆ど前のカキコの言い換え、付け足すべきは↓のリンクだけ^^;)
私にはそれを判断する能力はないです〜。で、そうした疑問が「経済学という教養」のスタート地点なのではないでしょうか。
「クルーグマン教授の経済学入門」に、かのサミュエルソンが推薦文を書いていますが、そこで挙げている「私(=サミュエルソン)世代の政策経済学者」たちは、私などでも名前やその理論を知っている人たちです。事ほど左様に、政治ばかりでなく経済理論でもひたすらアメリカ追従・ご機嫌伺いをしてきたのだということだと思いますが、日本国内の経済政策批判のあり方が、そもそも政策立案とは縁遠く(政策経済学なんてモノが成り立つ余地があったのか?)また左翼「マル経」側からの批判は、「近経」(!)十把一絡げのものしかなかった、という圧倒的な蓄積不足ではないでしょうか。
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反リフレ派は、具体的な反論もできずに、「他人の議論の援用ではなく自分の頭で考えるべきだ」とか、「日本の風土にあった経済学でないとだめだ」といった怨嗟の抗弁をわずかに試みるのみで、はたから見ても惨めである。(野口旭のリンクより)
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小林慶一郎さんなどは↑のような「怨嗟の抗弁」を多少発展させたつもりで「思想の対立」などと話を大きくはぐらかしてお茶を濁してますが、それは稲葉さんが書いていた「日本経済論の隘路」そのものだと思います。
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しかし、だからといってこの方がスティグリッツの言ってることを理解できないわけないでしょう、と思うのは私だけ?
ご参考:官僚にとっての「合理性」官僚の「立ち位置」について思い知らされた記事です↓
http://bewaad.com/archives/timeseries/2004/200406.html
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